昭和44年05月04日 夜の御理解



 教祖様は心配する心で信心せよと、教えておられます。心配する心でね切実に心配する、ですから神様に縋ろうという気にもなる。その心配する心でその切実さが、大きければ大きいだけ神様にお縋りする力もまた大きい訳です。そこで結果としてどういうことになるかというとね、心配があるから一生懸命お参りをする、一生懸命修行させてもらう。普通はできない私信心でも、修行でも心配があれば出来るものである。そこにそれの引き当てのように、又は引き換えのように下さるのが。
 何んとはなしに心の中に安らぎが生まれて来る。安心とまではいかんでも、これ程お縋りしておるの事であるからというような安らぎが。その問題はね心配する心で信心するということは、あのう事によってその事心配する心で信心する事によって、心に安らぎが生まれる。その安らぎがおかげを受ける元である。ですからどうしてもそのいうならば、だから安らぎを求めてのいうなら平常心。石井信司さんのお母さんの、もう二十年も前の話、ちょうど昼ごろお参りした。
 私は昼ごろお食事を終わってから、まぁ椛目の時代です裏が柿畑だった。あの古い井戸の上にもうもう柿の葉がちょうど今頃だったね。柿若葉のころだった。もう柿の青葉がそのう井戸の上に、こう額をさすように差し掛かっていた。私はだからその井戸のそばに行ってから、石井さんに「ちょっと石井さん、来てごらんちょっと見てごらん、」あることで心配事があって、久留米にいかれておるのであった。それでねあのう信心してあのうおかげを頂くということは、人の良いのと悪いのは別物だとこう仰るから。
 信心しておかげを受けるという事はどういう事かというと、例えていうならほらあのこの井戸の上を見なさい、もう鏡のようにあの澄み切っておる。低ぅい井戸でしたからね、そこにこうすると自分の顔がはっきりと映るね、しておる時に何かこう木の葉かなんかが、そのぷっとひとつ落ちたんですその井戸ん中へ、そしたらその井戸の中ずうとこうあの波紋を、映っとた私と石井さんの顔がこう崩れてしまう。ですから心の中にちょっと波紋を感じただけで、あのおかげがあのように崩れるんだと。
 お取次ぎを頂いておる、お取次ぎ頂くということは、お取次ぎを頂いてお願いをして頂いておるから、神様のご守護お守りを受ける事が出来るからと思うから、心が心配であっても心が波立っておっても、平常にそれに映る道理なのだ。いわゆるおかげが映ずる、おかげが映る。また二代金光様は、氏子心配に打ち込むな、信心に打ち込めとこう仰るね、心配に打ち込んだだけ、信心に打ち込めと。結果何がでると、信心に打ち込むとそのたとえば、清らかなものではなくてもですね。
 それは例えば濁っておってもですよこの水ね、いわゆる人はあんまり良くなくてもです、いうならば神様にお縋りするところから、生まれてくる平常心、心配に打ち込まずに、信心に打ち込む、打ち込まなければ不思議に打ち込むと自分の心の中に、安らぎが生まれる。その安らいだ心におかげが映ずる道理である。映るのであるね、私は思うのにですから結局おおよそのおかげを受ける、ひとつの原理とでもいうかね、それは心配が不安がおかげを受けられない元であるならばですね。
 腹を立ててもおかげを受けられない。不平不足を言うてもおかげが受けられない。人を恨んだり妬んだり、そういう心でもおかげは頂けない。ですからこれは心配する心で信心せよと、心配に打ち込まずに信心に打ち込めとね、そこでんならそれと同んなじように腹を立てたり悔やんだり、情けなかったりするといった様な事も同じ事、事だといえる同んなじ道理だ。そこで腹立たんで済む修行をするというかね。末永がさっき言うてました。大体その教会に生まれておるのですから。
 もう子供の時から、腹立てば心の鏡の曇る事をしっかり聞かされておる。けれども腹が立つんだとね、けれどもそのおかげを頂きたいんならば腹を立てては いや心配する事がおかげを受けられないように、腹を立てるということだけでも、いうならイライラモヤモヤするだけでもね、おかげを受けられんのだとということが分かる。そこでどうすれば腹かかんようになるかね、どうすれば平常心になる事が出来るかと。心配する心で信心せよということはね。
 なぜ心配になるかというとね、神様を信じていないから心配になるんです。腹が立つのでもそうですね、甲の人は腹を立ててるけれども、乙の人はその同じ条件の下にあっても、その事をお礼を申し上げておるかも知れんね。腹を立てておる人は神様を信じていない証拠、神様を信じておる人は、腹を立てるどころか、かえってお礼を申し上げておる。問題はだから神様を信じておるかいないかという。だから心配する心で信心させてもらうところから生まれてくるこれは平常心。
 不思議に一生懸命打ち込んで、いわゆる心配に打ち込まずに、信心に打ち込ませて頂いておるとです、なんとはなしに神様が何とかして下さる、神様が何とかして下さるという心がねこう湧き上って来る。いわゆる神様を信ずる事と同んなじ働きがそこに生まれる。私共が腹を立てるというのも情ないというのも、いうならば神様を信じる信不足から生まれて来るものだということ。そこで私はいよいよ神様を信じられる稽古、それを例えば教学の上から言うてもね、神徳修行霊徳修行の上からいうてもね。
 このようにも間違いのないという、神様を把握する事に精進する事が第一だという事が分る。心配することでも腹を立てることでもね、私はその腹が立つでも腹が立つ心配になる、神様私はあなたを信じておるというてもこれくらいの事でございます。と私はお詫びしにゃいかんと思う。腹が立っておるは心配になったおるのは、神様を信じていない証拠なんだと、それで私に与えて下さい信の力を与えて下さいと、ということになるのではないでしょうかね。
 そこでいわばここではなら皆さんに朝晩申し上げておることはですね、神様はこのようにも間違いがないね、いうならば一分一厘の間違いもないほどの神様の働きがです、このようにして、いうならひとつの手本を私は見せているようなものだね、そこで皆さんが段々、神様を信ずる力が生まれてくる。同時に自分の体験からも、神様を信じる力が生まれてくる。心配する心で信心せよと、それがねこのような場合でもこのように安心しておれるということが、有り難いという心で信心せよという事になるですね。
 信心の段々成就していくという事は。段々神様を信ずる事によってですよ、信ずる事が出来る様にな、事から腹が立たない様になり心配せんで済む様になり、この様な中にですこの様に安心しておれれるという事が有り難いね、その有り難いという心で信心せよという、そこからお徳が受けられる。心配する心で信心している間は、ぁだお徳は受けられんね、いわゆる有り難いと。ですから目指す所はそこんところ、まぁこの話この人間凡夫の事でございますから、どこにお粗末御無礼があるやら分からん。
 凡夫の事でございますから、右が本当と思うても左の方したりする様な事があります。けれどもこの様なおかげを受けておる。それが勿体無いそれが有り難いね、有り難い心で信心せよという事になる。有り難いという心で信心する、これはもうそのままお徳になると私は思うです。だからお徳を受けていくという事はね、先ず心配する心から信心させてもらう訳ね、心配する心配に打ち込まず信心に打ち込めと仰るから、信心に打ち込ませて頂きよったら、心配が段々なくなって薄らいで。
 心が平常を保つ事が出来る様になるね。そこからおかげ信心体験というかね、いわば信心してみかげのあるを不思議というまじきものぞ、ということが分かって来る様になるね。信心してみかげのない時は、これぞ不思議になる事なのですから、私共が例え祈り願っておかげにならんなら、これぞ不思議な事じゃから、その不思議を自分の心の上に、信心の仕方あり方の上においてみて、成程これじゃおかげは受けられまい、というところから精進がある。
そこに信心しておかげを受けるのは、不思議ではないという、まぁ当たり前の事としてのおかげが頂ける様になる。そこから有り難いとか、勿体無いということの、そういう信心が出来る。そういう有り難いという心で、信心せよというところから、もうそこから私はね、まるととそのままお徳になる、おかげを受けられる。先覚のお徳を受けられた先生方の場合は、それだと私は思う。やはり先生方でも始めの間不安でたまらなかった。心配でたまらなかったね。
 難儀と感じんで良い事でも難儀と感じておられて、その難儀の心心配の心を持って打ち込まれた、打ち込まれるところから、そこに確信がいわゆる確立して来るわけ。神様はこのように間違いないという事だという事が、分かって来る様になるね。そこから今度はね有り難いその心、有り難いという信心、それに限りないおかげが宿る映る、おかげが宿るわけです。そこから有り難い、いう有り難い心で信心が出来る様な、信心を目指しておかげを頂きたいですね。
   どうぞ。